みなさんは、人類史上初めて記録されている労働ストライキをご存じでしょうか?
世界ギネス記録にも登録されている人類史上初の労働ストライキは紀元前15世紀頃の古代 エジプト で起こりました。
では、なぜこのようなストライキが起こったのでしょうか?今回の記事では、その真実を知るために徹底解説していこうと思います!
マアト ~古代エジプトの思想~
労働ストライキを理解するためには、まず古代エジプトではどういった文化や思想が重要視されていたのかを理解しなければなりません。
古代エジプトでは、マアト(Ma’at)という調和を強調する思想が最も重要な文化的価値でした。マアトとは、エジプトの神々の意志に従って世界が適切に機能するための概念であり、古代エジプトの人々は古くからその概念を進行していました。

当時、エジプトの王であるファラオの主な責務は、このマアトを維持し、人々と神々の間に調和を保つことでした。具体的には、王は全ての国民に何かしらの仕事が与えられるようにしました。この仕事は、農民や植民などの身分により決められました。
しかし、紀元前1570年から紀元前1069年頃に興ったエジプト新王国では、ファラオがこのマアトである調和を維持できなかったことが記録されています。それが、人類史上初の労働ストライキです。
労働ストライキの背景
ラメセス3世(紀元前1186-紀元前1155年)は、エジプト新王国の「最後の偉大な王」として知られています。ラムセス3世はエジプトの国境を守ったり、神殿や記念碑の修復や改修を行ったりしたことで有名です。
ラムセス3世の時代は、食料などの資力が不足した時代と言われています。この時代、他国からの貢物が減少し、また、海の民と呼ばれる集団による大規模な侵攻も資力が不足した原因とされています。他にも、穀物の凶作も一つの原因とされています。
問題は紀元前1159年から始まりました。この年は、ファラオの長い統治を祝うためのセド祭が行われる3年前でした。古代エジプトに住む職人たちの月給が約1ヶ月遅れて支払われました。このことにより、職人たちは新王国の役人などに文句を言い始めました。しかし、すぐに月給が支払われたことにより、一時的に批判は収まりました。
労働ストライキの勃発
役人たちはなぜ給料が遅れてしまったのかを考えず、引き続き祭りの準備に取り掛かりました。そのために、給料の支払いは一月、また一月とどんどん遅れてしまいました。
我慢の限界に達した職人たちは、道具を置いて神殿に「私達は餓えてしまう!」と叫びながら行進したそうです。当時の給料は、諸説ありますが、麦やパン、ビールなどが支払われていたそうです。そのため、職人たちも給料が支払われないと職人たちは、食料がない状況に陥ってしまいます。ストライキはどんどん過激化し、ついにはトトメス3世の神殿で座り込み運動が行われてしまいます。
役人やファラオはマアトを強く信じていたため、「例え不幸なことが起きても、それは神々が調和を図るための思し召しである」と、国民全員が思っていると考えていました。そのため、彼らにとってマアトを乱す行為であるストライキは信じられない光景でした。再び役人たちは給料としてパンを支払い、何事もなく職人たちが帰ることを祈りました。
労働ストライキの継続
しかし、パンだけでは不十分であると主張した職人たちは、翌日テーベにあるラムセウムの南門を占拠し、食料を運搬する陸路を遮断しました。
ラムセウムとは?
ラムセウムとは、ラムセス2世の葬祭殿であり、当時は中央穀物倉庫としても機能していました。つまり、ラムセウムの門を占拠するということは、国の食料の運搬が完全に妨害されることを意味します。

ラムセウム葬祭殿の役人は、この運動に対処するため、警察部隊を要請しました。しかし、警察部隊の説得も通用せず、結局膠着状態が続く一方でした。
長い交渉の末、役人たちが給料を支払い、ようやく職人たちは帰っていきました。
2度目の労働ストライキ
しかし、また次の月では給料が支払われず、職人たちは再びストライキを起こしました。
職人たちは、今度は王家の谷という、古代エジプトにおけるとても神聖な地を占拠しました。この行為に怒りを覚えた役人たちは、武装警察を派遣しました。しかし、武力を行使しようとした役人たちでしたが、職人たちに「墓石を破壊するぞ!」と脅され、再び膠着状態に陥りました。
王家の谷とは?
王家の谷とは、テーベの岩山の谷にある岩窟墓群のことです。この谷には多くの王や偉い聖職者の墓があり、非常に神聖な場所として扱われていました。また、先程のラムセウムしかり、こういった葬祭殿や王の墓などは食料の倉庫としても機能していました。なぜ食料をこういった場で保存していたかというと、古代エジプトでは死者に食料を献饌(お供え)していました。そういった献饌された食料は、一定期間そういった建物で保存され、その後は撤饌(お供えを回収する作業)され、国民に食べられるようになりました。つまり、王家の谷を占拠したということは、聖職者は死者に対して献饌ができなくなり、献饌を妨げることは死者への冒涜として捉えられていました。こういった理由で、役人たちは激怒したそうです。

労働ストライキの意義
このストライキは、単なる労働ストライキではなく、それ以上の意味を示しました。それはマアト(神々による調和)の破壊を意味しました。
上でも述べたように、ファラオの役割はこのマアトの実現であり、それは役人が労働者にしっかり賃金を支払うように監修することも含まれています。それにも関わらず、職人たちは給料を支払われずにいました。
これを機に、多くの国民が今の役人たちを「マアトに反する行為を行う者たち」と批判し始めました。役人たちはこのことに対し危機感を抱くと同時に、なぜこうなってしまったのかを疑問に持つようにもしました。
ストライキのその後
その後は、役人たちが支払いを遅らせては、職人たちがストライキを起こし、ストライキをされては、役人たちは職人に給料を渋々払うようにしました。その一連の流れが何度も何度も行われ、そのうちに3年が経ってしまいました。
地方政府は、祭りが徐々に近づくことに焦りを持っていましたが、ストライキに対する具体的な対処を考えませんでした。また、この労働ストライキについては、ファラオの耳に入っていませんでした。その理由は、ファラオがこの事件について知ってしまうと、役人たち全員が処刑される可能性が高いため、役人たちは必死に情報がファラオの耳に入るのを防いだそうです。
残念ながら、古代エジプトの記録にはストライキについてここまでしか書いておらず、次の文章では紀元前1156年のセド祭は大成功したとしか書いていませんでした。なので、役人たちは何らかの解決策を見つけたのだと思われますが、その解決策については詳しく記録されませんでした。
労働ストライキによる社会の変化
古代エジプトの記録によると、このストライキにより労働者と雇用主である地方政府の役人たちとの関係性は変化しました。
今までは、マアトという調和の概念により、労働者に対する役人たちの多少な雑な扱いも受け入れられていましたが、このストライキのおかげで、労働者が不平等を感じると、マアトを破壊してでも平等を訴えるようになりました。
これにより、雇用主と労働者はより対等になり、社会はより平等に近づいたそうです。
また、この一連のストライキにより多くの国民は、王の不在や役人の汚職、また国の資力が低いと、マアトという社会の調和は実現不可能であり、社会の構造は不変だということに気づきました。
まとめ
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