エチオピア が植民地化されなかった数少ないアフリカの国の一つであることや、イタリアとの戦いで独立を守った歴史があります。
今回はそのエチオピアの独立について、ご紹介します。
エチオピアの独立
エチオピアは、その豊かな歴史と文化、そして独特の地理的特性により、アフリカ大陸において独特の位置を占めています。この国は、東アフリカのホルンに位置し、赤道に近いにもかかわらず、高地の存在により比較的温和な気候を持っています。エチオピアは、古代からの文化的、宗教的伝統を持ち、キリスト教のアクスム王国が設立された地としても知られています。この地域は、その後も独自の帝国を維持し、周辺地域に大きな影響を与え続けました。
19世紀末には、アフリカのほとんどがヨーロッパの列強によって分割・植民地化されていく中、エチオピアは独立を保ち続ける数少ない国の一つでした。これは、1896年のアドワの戦いでイタリア軍を撃退したことにより、エチオピアが国際社会において独立国として認められるきっかけとなりました。しかし、20世紀に入ると、新たな挑戦に直面します。1935年から1936年にかけての第二次伊土戦争では、イタリアの侵攻を受け、一時的に占領されましたが、第二次世界大戦後には再び独立を回復しました。
そこで、エチオピアがどのようにしてその独立を守り、また回復したのか、その歴史的背景と重要な出来事に焦点を当て書いていきます。また、エチオピアの独立がアフリカ及び世界史に与えた影響についても詳しく探ります。
歴史的背景
エチオピアの歴史的背景は、古代からの深い文化的及び政治的変遷を経験しており、アフリカ大陸の中で特異な地位を占めています。この部分では、古代のアクスム王国から始まり、エチオピア帝国の形成、そして近代に至るまでのエチオピアの地位と欧州列強との関係に焦点を当てます。
アクスム王国は紀元前1世紀頃に興り、約4世紀頃にはキリスト教を国教として採用しました。この王国は、赤海とナイル川流域をつなぐ重要な交易路上に位置し、金、象牙、香辛料の交易で栄えました。アクスムのオベリスクや教会建築は、この時代の文化的成果を示す重要な遺跡です。
アクスム王国の衰退後、様々な地域勢力が台頭し、中世エチオピアは断続的な政治的変動を経験しました。1270年頃にソロモン朝が成立し、エチオピア帝国の基盤が固められました。この朝は、キリスト教正統派の影響を強く受け、独自の文化的・宗教的アイデンティティを形成しました。
19世紀末には、エチオピアはアフリカ分割においてヨーロッパ列強による植民地化の圧力に直面しました。しかし、1896年のアドワの戦いでイタリア軍を撃退し、独立を保持することに成功しました。この勝利は、エチオピアが国際的な認知を獲得し、後の植民地時代におけるアフリカの象徴的な存在となるきっかけとなりました。
エチオピアの長い歴史と独自の文化的遺産は、その後の独立と国家形成の基盤を築き、ヨーロッパ列強との関係は国際的地位と外交政策に大きな影響を与えました。これらの歴史的背景は、後の独立運動におけるエチオピアの戦略的な判断に重要な役割を果たしました。
独立への道
エチオピアの独立への道は、19世紀末の植民地主義の高まりという背景の中で形成されました。この時期、イタリアはエチオピアを植民地化しようと試みましたが、1896年のアドワの戦いでエチオピア軍に敗れました。この戦いは、アフリカにおけるヨーロッパ列強に対する珍しい勝利であり、エチオピアの独立を国際的に確固たるものにしました。この勝利は、アフリカ全土での反植民地主義運動に影響を与え、エチオピアを象徴的な存在にしました。
エチオピアの独立を確立したキーパーソンの一人がメネリク2世でした。彼の統治下でエチオピアは近代化を進め、中央集権的な政府を確立しました。メネリク2世は、教育、軍事、インフラストラクチャの改革を推進し、エチオピアの国際的地位を高めるとともに、国内の統一と安定を図りました。
しかし、エチオピアの独立は、1935年から1936年にかけての第二次伊土戦争によって再び試されました。イタリアはムッソリーニの指導のもと、再度エチオピアを占領しようとし、最終的に一時的ながら成功しました。この時期、エチオピアは苛烈な抵抗を続けたものの、一時的にはイタリアの支配下に置かれました。
この一時的な占領は、第二次世界大戦と連動し、戦後の国際秩序の再編において重要な役割を果たしました。エチオピアは連合国の一員として戦い、戦後の世界において、再び独立と主権を確立しました。この経験は、エチオピアの国家アイデンティティと独立への意志を強固にし、後のアフリカ諸国の独立運動に影響を与えることとなりました。
第二次世界大戦とその後の独立
第二次世界大戦は、エチオピアの歴史において重要な転換点でした。1936年から1941年にかけてのイタリアによる占領の後、エチオピアは連合国と協力し、自国の独立を取り戻すための戦いに臨みました。この期間、エチオピアの皇帝ハイレ・セラシエ1世は国際社会においてエチオピアの独立を訴え続け、特に国際連盟における彼の演説は有名です。その演説は、世界中にエチオピアの状況を知らしめ、支持を集めるのに一役買いました。
ハイレ・セラシエ1世の演説の中で特に有名な言葉は、彼が国際連盟の原則に基づく行動を求める際に発した「今日は我々、明日はあなた方」というフレーズです。
第二次世界大戦が終結すると、エチオピアは再び独立を回復しました。この独立回復は、エチオピアが国際社会での自立した地位を再確立するきっかけとなりました。エチオピアは国際連合の創設メンバーの一つとなり、非植民地化とアフリカ諸国の独立運動を支持する重要な役割を担うこととなりました。
ハイレ・セラシエ1世の統治は、エチオピアにおける近代化と国際化の進展に大きく貢献しました。彼の政策により、教育、医療、インフラの整備が進められ、国内の社会経済的基盤が強化されました。また、皇帝はアフリカ統一機構(OAU、現アフリカ連合)の設立にも影響を与え、アフリカ諸国の連帯と協力を促進することに貢献しました。
この時期のエチオピアは、アフリカにおける独立と自決の象徴となり、後のアフリカ諸国の独立運動に大きな影響を与えました。ハイレ・セラシエ1世の統治は、国内外で多くの挑戦に直面しながらも、エチオピアの国家建設と国際的な地位の向上に大きく寄与しました。
まとめ
エチオピアの独立は、アフリカ及び世界史において非常に重要な意義を持っています。エチオピアは、植民地化の波がアフリカ大陸を席巻した時代において、独立を維持し続けた数少ない国の一つでした。アドワの戦いでの勝利は、ヨーロッパ列強による圧倒的な力に抗するアフリカの能力を象徴する出来事であり、アフリカ諸国の反植民地主義運動における重要な触媒となりました。第二次世界大戦におけるエチオピアの独立回復とその後の国際的な役割は、アフリカの非植民地化と地域連携の先駆けとなりました。
いかがでしたしょうか?
この記事を読んで、少しでもアフリカに興味を持つ方が増えたら良いなと思います。
アフリカについてより多く知りたいと思った人はぜひ、他の記事も読んでみてください。
出典:
コメント